朝一番の予約票を握りしめ、私はまだ空気の冷たい病院の正面玄関をくぐりました。受付機にカードを通すと、吐き出された番号札には「九時診察予定」と記されています。この数字がどれほど頼りないものであるかを、私はこれまでの長い通院生活で痛いほど知っていました。待合室の硬い椅子に腰を下ろし、周囲を見渡すと、すでに多くの人々がそれぞれの不安を抱えて座っています。新聞を広げる人、スマートフォンの画面を凝視する人、そしてただ一点を見つめて静かに耐える人。病院の待合室は、独特の静寂と焦燥感が入り混じった不思議な空間です。九時を過ぎ、十時を過ぎても、私の番号がモニターに表示される気配はありません。診察室の扉が開くたびに視線を向けますが、呼ばれるのは別の番号ばかり。次第に空腹感と腰の痛みが増し、当初持っていたはずの余裕は、少しずつ苛立ちへと変わっていきます。なぜ、これほどまでに待たされるのでしょうか。医師がサボっているわけではないことは分かっています。廊下の向こうでは、看護師たちが忙しなく走り回り、どこかで緊急のアナウンスが響いています。医療の現場は戦場であり、私の「待ち時間」は、どこかの誰かの「救われた時間」の裏返しなのかもしれない。そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせようと努めます。十一時半、ようやく私の番号が点滅しました。三時間半待って、診察室での滞在時間はわずか五分。医師は私の顔を見て、検査結果を伝え、次の予約を確認する。その迅速な動きに、私は感謝しつつも、どこかやり切れない虚しさを感じずにはいられませんでした。しかし、診察室を出た後の会計でも、さらに三十分の待機が待ち受けています。支払いを終え、処方箋を受け取り、病院の自動ドアを出たときには、太陽はすでに中天を過ぎていました。私の貴重な午前中は、この白い建物の中で静かに溶けていったのです。通院の一日は、まさに忍耐の修行です。しかし、この長い時間があるからこそ、私たちは自分の健康の重みを再確認し、現代の医療体制の限界と恩恵を同時に享受しているのだとも言えます。帰宅後、どっと押し寄せる疲労感の中で、私はふと考えました。あの待合室で隣に座っていた高齢の女性は、無事に診察を終えられただろうか。誰もが平等に待ち、誰もが平等に救いを求める場所。病院の長い待ち時間は、不便極まりない現実であると同時に、私たちが社会の中で共に生き、お互いの命を尊重し合うために支払っている、目に見えないコストなのかもしれません。
大病院での長い待ち時間を乗り越えたある患者の一日